2026.7.6-11 ギャラリー檜C
写真の歴史はまだそんなに長いとは言えません、たかだか200年くらいなのだろうか、、、。 写真は「撮るに値する」ものを撮影して残す、という呪縛とも言うべき使命を要請され、 純粋に単なる「写真」という事物として差し出されることを困難にされてきました。 成立するために被写体の存在が必須となる「引用メディア」である写真を今回、私が 「伊勢原広大地」と勝手に名付けた神奈川県郡部の「撮るに値しない」風景を仮借しながら、 「風景」、「風景写真」とは何なのか、そして「写真」が指し示すものはいったい何なのか、 「写真についての写真」を提示してみます。 それにしても、photographという単語を最初に「光画」と訳さず「写真」と訳し当てて、 歴史を歩み始めた日本はかえすがえすも残念である。本来、光の落書きのはずの「photograph」 を真実が写されているとする証明としての「写真」としたならば意味がほぼ真逆ではないか、、、。 しかし現在ではもしかしたら写真が一番信用のならない偽りのメディアであるかのようである。 タイトルの「正午」は太陽が南中する最も影が短くなる時刻、どちらへも寄らないニュートラルな状態、 写真がただ投げ出された有様を示した。 「大いなる正午、、」ニーチェ「ツァラトゥストラ」の文中に現れます。
あらゆるイメージは勘違い